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チェコにおける体操運動とネイション
―― ナショナル・シンボルをめぐる闘争 ――
『東欧史研究』 24号 (2002年夏頃) 掲載予定

 本稿の目的は、19世紀末ボヘミアの体操運動において発信されていたナショナル・シンボル、特にヤン・フスをめぐるシンボルを抽出し、その機能を分析することである。チェコ史学においては、社会主義政権下の1980年代初めより、プルゼニ・シンポジウムを中心としてナショナル・ヒストリーを「脱構築」する動きが出てきているが、本稿は、こうした文化史研究の潮流に棹さしつつ、体操運動におけるナショナル・シンボルの形成という一つの事例研究を提示することをねらいとしている。

 チェコ社会においては、青年チェコ党と密接な関わりを持った体操協会ソコル(Sokol)が登場し、「大衆の国民化」において極めて大きな役割を果たしたと言えるだろう。だが、当然のことながら、ソコルがチェコ・ネイションのすべての層を包括できていたわけでもない。19世紀末に生じたエリート政治から大衆政治への移行と連動して、体操運動においても「ブルジョア的」なソコルに対抗するべく労働者体操協会やキリスト教社会党系のオレル(Orel)が誕生し、そのいずれもがナショナル・シンボルを使って大衆の支持を獲得しようとしていたのである。

 もちろん、そうした点から、労働者体操協会やオレルもまた、自らの理論や教義を捨ててナショナリズムへと傾倒したと単純に結論づけることはできない。だが、それらの運動がネイションという価値を否定せずに ―― もしくは否定できずに ―― インターナショナリズムやカトリシズムを主張していたというのは事実である。また、ソコルにしても、ナショナル・シンボルを積極的に発信し始めたのは、労働者体操協会やオレルが登場した1890年代後半以降のことであった。労働者体操協会やオレルはソコルに比して大きな勢力とはなり得なかったものの、全ネイション的なソコルを脅かすことには成功したのである。まさにそのことにより、どの組織が真にナショナルな存在なのかという問題が発生し、ネイションをめぐる言説を各団体がこぞって発信し始めたのであった。その意味においては、三者の争いはナショナル・シンボルをめぐる闘争であったと言えるだろう。本稿において第一に確認されるのはこの点である。

 第二に指摘すべきことは、ネイションの内部で正当性争いが開始されたことによってナショナル・シンボルの機能が変化した、という点であろう。1860年代においては、チェコ・ネイションの存在保障を提供することが第一の課題であり、ナショナル・シンボルもまた、ネイションの実体性を証明する役目を担わされていたのであった。これに対し、社会的亀裂が明瞭になった19世紀末においては、ネイションの文明性や歴史性を示すことよりは、ネイション内部の正当性争いにシンボルが動員されるようになったのである。1860年代と同じシンボルが取り上げられ、ナショナルなものとして表象されていたとしても、シンボル自体に負わされていた機能は、変化していたのであった。

 第三に導き出されるのは、世紀転換期におけるシンボルをめぐる争いが、逆説的ではあるが、ネイションという価値の実体性を強化することに貢献したのではないか、という点である。確かに、この時期においては、ネイションの存在を証明するというシンボルの機能はすでに副次的なものとなっていた。また、三種類の体操団体が競合し、自分こそがナショナルな存在であるという言説をぶつけ合う中においては、ネイション概念やそれを表象するシンボルも各勢力の主張に見合う形で変容し、多義化していったはずである。だが、どの陣営が真にナショナルな存在なのかという争いにおいては、ネイションは実在するのだろうかという根本的な疑問は発せられなくなり、不問のまま放置されていく。つまり、ネイションという概念そのものは多義化しながらも、ネイションという共同体が実体として存在するという感覚だけは強化されてしまうわけである。言うまでもなく、ここで扱っているのは体操運動における言説のみであり、それをそのまま社会全体に当てはめることはできない。また、発信された言説が会員たちにどのように受容されていたのか、という点も不明なままである。だが、少なくとも、体操運動における正当性争いが、チェコ社会におけるネイションの所与性を強化することに一役買ったという点は言えるであろう。

 1999年12月3日記、2001年7月15日改訂、2002年3月10日再改訂。


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