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「我が祖国」への想像力
―― ドイツ系多数地域におけるチェコ・ソコルの活動 ――
『スラヴ研究』 49号, 29-50頁, 2002年.



 19世紀のチェコ社会において最大の結社へと成長した体操団体(ソコル)は、世紀転換期より活動の範囲をドイツ系多数地域にも広げ、その地域に居住する少数派のチェコ系住民を積極的に組織化し始めたのであった。その過程において、ドイツ系多数地域は「ゲルマン化の危険に脅かされている地域」とされ、当地に住むチェコ系住民は「救い出されるべき同胞」と規定されたのである。本稿においては、ソコルのこうした活動に着目し、以下の二つの目的を設定することにしたい。まず第一に、ソコルがなぜドイツ系多数地域に大きな関心を抱いたのか、という点を明らかにすること、第二に、ソコルが「脅かされた地域」に進出していくうえで、少数派のチェコ系住民とプラハを中心とするチェコ系多数地域の「同胞」との連帯感をどのようにして生み出そうとしていたのか、という点について考察すること、である。

 後に「ズデーテンラント」と総称されることになるドイツ系多数地域について、ソコルが影響力を及ぼし始めたのは、少数派チェコ系住民の支援を目的とした中央学校財団(Ustredni Matice skolska)やネイション協会(Narodni Jednota)と同じく1880年代前半であった。だが、当該地域におけるチェコ系住民の「窮状」がソコルの機関誌において頻繁に紹介され、彼らを支援するためのキャンペーンが本格的に行われるようになったのは、1896年以降のことである。

 その要因として以下の二つが挙げられよう。第一の点は、同年春の聖霊降臨祭に企画されていたテプリツェ(ボヘミア北西部)のソコル祭典とプラハティツェ(ボヘミア南部)を目的地とするソコル遠足が、当局によって相次いで禁止されたことであった。本論の中で明らかにされるように、この二つの祝祭が禁止されるに至った文脈は異なるものであったし、チェコ系住民への「嫌がらせ」の結果として生じたものでもなかった。しかしながら、この二つの事例は、結果としてソコル指導部によって重要視され、少数派チェコ系住民に対する支援活動が行われる直接的なきっかけとなったのである。

 また、ソコルと密接な関係を持っていた青年チェコ党と社会民主党との対立が深刻化したという点も挙げておく必要があろう。1896年6月の選挙制度改革によって帝国議会に男子普通選挙を行う第五クーリエが新設されたために、両党は選挙における票をめぐって直接対峙する関係となったのである。ソコルによる少数派支援は、主に工業地域の労働者をターゲットとしていたが、それは、「インターナショナル」からチェコ系労働者を守ろうとする青年チェコ党の試みともリンクしていたのである。

 では、ソコルは実際の活動の中で、どのようにしてチェコ系少数派を「支援」していったのであろうか? 具体的には以下の三点が重要であったと言えるだろう。(1) ドイツ系多数地域において積極的に支部を創設し、体操祭典や遠足といったイヴェントによって当該地域における「チェコ人」の存在を誇示すること。(2) 体育館などの場所を確保することによってチェコ系住民が集う一種の公共空間を創り出し、かつ、公的活動をリードするエリートを養成したこと。(3) チェコ系多数地域の支部とドイツ系多数地域の支部との交流を行うことによって、チェコ・ネイションの連帯感を養うこと。以上のような活動により、ソコルは、ドイツ系多数地域を含む歴史的な領域をエスニックな領域として読み替え、チェコ語話者によって構成される「我が祖国」のイメージを創り出そうとしたのである。換言すれば、それは、言語によって規定される属人的な共同体を歴史的領土という属地的な共同体へと接合する試みでもあった。

 チェコ・ナショナリズムにおいては、ボヘミア、あるいはチェコ諸領邦の歴史性を強調するヴェクトルと、チェコ語というエスニックな側面を強調するヴェクトルの二つが常にせめぎ合っていたといえるだろう。だが、領域を単位とする前者と人的共同体を単位とする後者が重なり合えば合うほど、その共同体における「ドイツ人」(ドイツ語話者)の位置づけは困難なものとならざるを得ない。その矛盾が端的な形で表れたのがドイツ系多数地域であったはずである。本稿は、ソコルという一つの結社に限定した研究ではあるが、そうした問題性に対して一つの視点を提供できるものと考えている。

 2001年2月8日記。8月28日全面改訂。12月19日再改訂。


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