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5.ヒトラーの師とヘプ


ヘプの街並み・郵便局
ヘプの街並み・郵便局、2000年7月3日

 若きヒトラーがウィーンにやって来たとき、彼は「我が人生の師」となるべき人物を二人見いだしている。一人は、極右政党である汎ドイツ党の指導者、ゲオルク・フォン・シェーネラー(1842-1921)、もう一人はキリスト教社会党の指導者でウィーン市長を務めたカール・ルエーガー(1844-1910)であった。いずれも反ユダヤ主義者として有名な人物である。そして、シェーネラーと汎ドイツ党の重要な支持基盤となっていたのがこのヘプであった。カール・ヘルマン・ヴォルフ(1862-1941)のような数多くの汎ドイツ主義者を輩出し、シェーネラーを名誉市民に任命したのもこの街である。ただし、ヘプの市会議員たちがカルロヴィ・ヴァリ(地図6)の温泉街にやってきたフランツ・ヨーゼフ皇帝を歓待したことに腹を立てた彼は、名誉市民の地位を放棄してしまったのであった(1904年)。シェーネラーを始めとする汎ドイツ党は、ハプスブルクに敵意を持ち、オーストリア --- チェコ地方を含む --- のドイツ帝国への統合を望んでいたからである。いずれにしても、ヘプは「ズデーテンラント」では最もフェルキッシュ(民族主義的)な街であったと言えるだろう。筆者がこの街に興味を抱いたのはその為である。

 では、まずシェーネラーと体操運動との関わりを見ていくことにしよう。オーストリア・ドイツ人の体操運動では、1880年代から反ユダヤ主義がじわじわと浸透しつつあったが、それを象徴する事件となったのは、1887年における第一ウィーン体操協会の一件であった。この時、当協会では「アーリア条項」が採択され、会員約1100名のうち、実に450名もの「非アーリア系」会員が追放されたのである。シェーネラーも1883年より体操運動と関わりを持つようになり、各地の協会が主催する祭典、あるいは宴会(Kneipe)に呼ばれるたびに、反ユダヤ主義的な演説をぶったりしたようである。が、どうやらそれは「お付き合い」程度のものだったらしい。少なくとも、彼が積極的に体操協会の「アーリア化」を促進したという形跡は認められないのである。だが、第一ウィーン体操協会の中でも札付きの反ユダヤ主義者であったフランツ・クサヴェル・キースリングの存在を彼が見逃すことはなかった。キースリングは、1885年 --- 1886年の可能性もある --- に『ドイツ体操の敵 Feinde deutscher Turnerei 』と題する戦闘的な書物を書き上げ、これまた反ユダヤ主義で有名な出版社から刊行しようとしていたが、当局にそれを没収され、14箇所に渡る修正命令を受けていたのであった。ところが、シェーネラーはどこからかこの原稿を入手し、無修正のまま、下オーストリアにある自前の出版社から刊行してしまったのである。帝国議会議員の不逮捕特権があったからこそできた業であった。慌てたのはキースリングの方である。当局に目を付けられることを恐れた彼は、要求されたとおりの修正版を作成し、それを別の出版社から刊行したのであった。[この段落と次の段落については、一部修正してあります。2000.8.14]

ヘプの街を行進するドイツ人の女性体操家たち
ヘプの街を行進するドイツ人の女性体操家たち(1935年)。出典: Heinrich Mahr, 100 Jahre Turnverein Eger 1863-1963, Amberg, 1963.
 当時のドイツ系体操団体は、チェコ地方を含むオーストリア全体として体操協会クライス同盟(Kreisverband der Turnvereine Deutschosterreichs)を構成し、そのクライス同盟がさらに、1868年にドイツで設立されたドイツ体操家連盟(DT, Deutsche Turnerschaft)の第15支部(クライス)を成していたのであった。つまり、オーストリアのドイツ人体操家たちは、ドイツ帝国との一体性 --- 大ドイツ主義 --- を前提とした形で組織を編成していたのである。ところが、オーストリア側で強まった反ユダヤ主義をめぐって、連盟(DT)本部と第15支部、第15支部の内部、さらには第15支部内の反ユダヤ主義勢力の間でも対立が発生することとなる。反ユダヤ主義的な体操家であっても、「ドイツ民族(=種族)の一体性」を実現する為に、連盟(DT)にとどまり、連盟(DT)と第15支部の「純化」を図るべきと考える者もいれば、連盟(DT)と第15支部を見限って新たな体操団体を結成するべきだと主張する者もいたのである。その結果、あくまで人種の純粋性(Rassenreinheit)を優先しようとする勢力が第15支部を飛び出し、1889年にドイツ体操家同盟(DTB, Deutscher Tunerbund)を結成したのであった。ちょうどこの頃、シェーネラーは、ウィーンの新聞社に対する襲撃事件(1888年)を起こして貴族の称号と公民権を剥奪されたばかりであり、体操運動に関わる余裕などなかったはずであった。だが、牢屋に入れられている時にでも体操の「重要さ」を悟ったのであろうか。1892年以降は、この同盟(DTB)に積極的に関わるようになったばかりか、組織全体に自分への「個人崇拝」を浸透させるように努力し始めたのであった。

 ずいぶんと「前置き」が長くなってしまったが、これよりヘプに話を戻すことにしよう。1863年に創設されたドイツ系のエーガー(ヘプ)体操協会も、当然のことながら、こうした反ユダヤ主義の洗礼を免れることはなかった。否、反ユダヤ主義を先導する立場にあったと考える方が正しいのかもしれない。いずれにせよ、この協会もご多分に漏れず「アーリア条項」を採用し(1894年)、フェルキッシュ(民族主義的)な性格を強めていったのである。そして、第15支部主催で開かれた97年の体操祭典も一つのターニング・ポイントとなった。おそらくユダヤ人であったと思われるが、この時の競技会で任命された審判員をめぐって騒動が起こり、これを直接のきっかけとしてエーガー体操協会を始めとするいくつかの組織が第15支部=連盟(DT)を脱退し、同盟(DTB)に鞍替えしたのであった。

 シェーネラーとの関係で言えば、1908年には興味深い事件が発生している。この年、ヘプで開催されたドイツ体操同盟(DTB)の第八回大会(Bundesturntag)において、シェーネラーの独裁的なやり方を快く思わないベルリンの体操家が、彼の妻はユダヤ系ではないかと問うたのであった。こんなことを言われてあの怒りっぽいシェーネラーが黙っているはずはない。案の定、激怒したシェーネラーは同盟(DTB)を脱会してしまったのであった。だが、シェーネラーを崇拝する体操家がいたのであろう。翌09年には、その体操家を中心として、新たな組織、ビスマルク汎ドイツ体操同盟が結成されたのである。ただし、当局が「ビスマルク」というネーミングを嫌ったために、その後、この団体はアルント汎ドイツ体操同盟と改称されている。

 そんなことがあっても、同盟(DTB)のシェーネラーに対する「思い」は変わらなかった。1913年、エーガー(ヘプ)体操協会の創設50周年を記念してヘプで開催された第六回同盟体操祭典においては、シェーネラーと同盟(DTB)の「友好関係」がちゃんと復活されたのであった。もちろん、エーガー体操協会もシェーネラーのご機嫌をとることを忘れはしなかった。この年の春、当協会はシェーネラーを名誉会員に任命しているのである。余談ではあるが、エーガー体操協会の創設百周年を記念して1963年に出版された記念論集においても、シェーネラーの名前が依然として名誉会員の一人として掲載されている。シェーネラーの名前を残すという行為が何を意味するのか、正直に言って筆者には分からない。もしかしたらそれは、旧「ズデーテン・ラント」をめぐる「民族問題の深刻さ」を示しているのだろうか?


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引用文献等

 [注1]正式に引用する許可を得ていないため、ここではそのタイトルを記さないが、本節における記述には、ノルテ氏(Claire E. Nolte、アメリカ合衆国の研究者)より頂いた未発表の論文草稿に負う部分が含まれている。

 [注2]この節は、2000年8月14日に一部修正しています。