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おわりに(2) --- 「民主主義の学校」を越えて


民俗舞踊

ソコル祭典で行われた民俗舞踊、2000年7月2日

 19世紀からチェコスロヴァキアが独立する1918年までの時期を「国民形成(nation-building)」の時代と捉えることは可能であろう。また、経済的・政治的に安定した共和国を形成することに成功した戦間期については、「国民社会(national-society)」の成熟期であったと位置づけることができるのかもしれない。だが、その「国民形成」において、ドイツ人やユダヤ人はどのような役割を果たしたのであろうか? 前節において述べたように、当時のチェコ社会で支配的であったのは「自発的な分離」であり、チェコ人というネイション(国民)の形成は、一見すると、自律的な過程であったかのように思われなくもない。しかしながら、複数のネイションが「対峙」する中でチェコ人を成熟した「国民」へと駆り立てていったのは、何よりもまず、他者に対する対抗意識であったのではないだろうか?

 1891年にチェコ人独自の博覧会がプラハで行われ、ネイションの経済力を誇示することに成功した際、チェコ系の日刊紙『ナーロドニー・リスティ』は、これで我々も「文化的民族(Kulturvolk)」への仲間入りを果たしたのだ、と自画自賛している。19世紀の前半には、淑女にチェコ語で話しかけるのは失礼だとされていたぐらいである。それから比べれば、チェコ人の「覚醒」と「成熟」は驚異的ですらあった。チェコ人はもはや「卑しい民族(narod)」などではなく「ヨーロッパ水準のフォルク」へと成長したというのだ。だが、このフォルクという言葉には注意すべきであろう。彼らがわざわざ「クルトゥーア・フォルク(文化的民族)」というドイツ語の単語を使った背景には、ドイツ人に対する強烈な対抗心が存在したはずだからである。

ボレロ

女性による集団体操、テーマは「ボレロ」、2000年7月2日
 しかしながら、19世紀後半から第一次大戦、そして戦間期のチェコを「国民社会(national society)」と呼ぶとき、そこにあったはずのネイションの複数性は見落とされてしまうのではないだろうか? 繰り返しになるが、当時のチェコには少なくとも、チェコ人、ドイツ人、ユダヤ人という三つのネイションが存在し、それらのネイションが対峙し合う中で「近代化」が進展していったはずである。その過程を「国民化」と位置づけるとすれば、その「国民化」を加速させたはずの「他者へのまなざし」という要素を無視する危険が出てこよう。もちろん、筆者は「国民社会」というネーミングのすべてを否定するつもりはない。が、少なくとも、当時のチェコを「国民社会」と呼ぶ前に、この社会が複数のネイションが対峙する「対抗共同体」であったという点を確認しておく必要があろう。つまり、「対抗共同体」という概念は、「国民形成過程」、あるいは「国民社会」が持っている「複雑性」を見落とさない為の補助装置なのである。「対抗共同体」という概念の意義は、まさにこの点にある。

 では、ネイション(国民)とは、そもそも何だろうか?

 ここでは、A. D. スミスの議論を筆者なりに多少「改造」した形でネイションの概念を説明しておくことにしよう。一般的に、ネイションには、市民的側面とエスニック的側面の二つの要素が含まれていると考えられる。前者は、西欧のネイション概念に典型的に見られる要素であり、歴史上の領域、法的・政治的共同体、共通の市民的文化といった点を強調するものである。これに対し、後者は、非西欧世界のネイション概念に良く見られる要素であり、土着的文化や出自といった点に重きを置くものである。ただし、これら二つのモデルは理念型であり、実際のネイション概念においては、常に二つの要素が混在している。日本語においては、ネイション(nation, Nation, narod)に相当する単語として、市民的側面を連想させる「国民」と、エスニック的側面を連想させる「民族」という二つの単語が存在するが、このエッセイでは、ネイションの持つこうした二重性を強調するために、原則として「ネイション」というカタカナ語だけを用いている。

集団体操

第13回ソコル祭典で行われた集団体操、2000年7月2日
 ネイション概念のこうした整理の仕方は、ある意味で、ハンス・コーンのやや理想主義的な議論と共通する面を持っているようにも思われる。ネイションの概念を普遍性と個別性という二つのベクトルに分解したという点においてである。ただし、コーンはそれを善悪の問題として考えたというところが、スミスの議論と異なっていた。つまり、彼は、西ヨーロッパのナショナリズムに見られた普遍主義的な理念を肯定的に評価し、ドイツ以東に見られた偏狭なナショナリズムを否定的に捉えたのである。彼によれば、「東型」のエスニック中心主義的なナショナリズムは克服されるべきものであり、「西型」のリベラルなナショナリズムに取って代わられるべきものであった。彼の楽観的な予測においては、世界中に自由主義が浸透していくとともに、ネイション同士の無益な争いは止み、ナショナリズム、そしてネイションそのものの存在意義が消滅していく。こうした考え方は、今から見れば、ネイションとナショナリズムを単純化し過ぎた話である。だが、いわゆる「近代化」が終了すれば、ナショナリズムも終焉するという感覚は、現代においてもかなりの程度共有されているのではないだろうか?

 ソコルを例にとって考えてみることにしよう。1884年から1937年に亡くなるまでソコル会員であり、第一次大戦後に新生チェコスロヴァキアの初代大統領となったマサリクは、ソコルを「民主主義の学校」と規定している。ソコルの体育館においては、労働者であれ、資本家であれ、あるいは知識人であれ、メンバーなら誰しも対等のチェコ人として扱われるのであった。同じ体操着を着てお互いに「君、お前」で呼び合う。そういった経験が彼らの間に一体感を生み出し、チェコ人としての自覚を生み出す。それだけではない。ソコルメンバーの間にはデモクラシーの精神が浸透し、メンバーが集う体育館は一種の公共圏として立ち現れてくるのだ。また、会員は粗野な振る舞いを是正し、集団生活のなかで必要とされる「洗練された」立ち居振る舞いを身につけていくことであろう。少なくともこの文脈においては、ソコルは偏狭なナショナリズムを助長する組織として見なされることはない。それどころか、ソコルは「近代化」の担い手であり、「文明化」の推進役として扱われるのである。

 だが、本当にそうであろうか? 一見すると、「民主主義の学校」は無害な存在であり、偏狭なナショナリズムを克服するうえでプラスに働くように見える。しかしながら、「近代的社会」に生きているという意識、「洗練された文化」を持っているという自負心もまた、ナショナリズムの表れではないだろうか?

 コーンは、フス派から兄弟団に至るチェコの宗教改革をアメリカ革命やフランス革命につながる「自由主義の先駆」と捉え、その意義を「発見」した「チェコ・ネイションの父」、パラツキー(1798-1876)を高く評価したのであった。まさにその「発見」により、チェコ人のナショナリズムは、「東型」でありながら「西型」に限りなく近い地位を占めることに成功したというのである。だが、パラツキーやマサリクの「ナショナル・ヒストリー」を創造する営みは、「偏狭な」チェコ・ナショナリズムを克服させたのではなく、その方向性を変えただけの話ではないだろうか? 「我がネイションの特質」に固執する欲求、そして、自由主義や民主主義といった普遍性に向かおうとする欲求、これらは共に、ナショナリズムというコインの表裏をなす現象なのである。つまり、どちらが善でどちらが悪という話ではないのだ。人びとに帰属意識をもたらし、自負心と誇りを与えてくれるという意味では、市民的側面とエスニック的側面は等価なのである。この点についてスミスの主張は明示的ではないが、少なくとも、議論の出発点としては有効であろう。

 最後に、ここまでの話についてまとめておくことにしよう。第三節の後半より大幅に道を逸れてしまったエッセイであったが、これまでの長い道のりから何を導き出すことができるだろうか?

  1. 現在のソコル会員、あるいはソコル研究者にも流布しているイメージにおいては、ソコル運動は体操のカテゴリーを越えた一種の理念として受け止められる。ソコル運動において、人は「健全なる」ネイション意識を獲得し、デモクラシーの担い手として立ち現れるのである。もう少し踏み込んだ言い方をすれば、ソコル運動は、「文明化」された「市民」を生み出し、「国民的公共圏」とでも言うべき空間を創出しようとしていたのであった。だが、こうした「自負心」もまた、自らの独自性に固執する「偏狭さ」と同じく、ナショナリズムの重要な構成要素である。その意味では、「近代的」な顔を持ったソコル運動もまた、ナショナリズムから自由な存在ではありえなかった。

  2. エッセイの冒頭でも述べたように、戦間期においては12名に一人の「チェコスロヴァキア人」がソコル会員であった(1937年)。もし、スロヴァキア人を含めずに計算すれば、その割合はもっと高くなったことであろう。隣のドイツでは40名に一人がドイツ体操家連盟(DT, Deutsche Turnerschaft)の会員であったことを考えると、この国ではいかに体操運動が盛んであったかが理解できる。また、チェコスロヴァキア内のドイツ人について見れば、20名に一人がドイツ体操同盟(DTV, Deutscher Turnverband)の会員であった(1928年)。体操やスポーツ運動が盛んになる一つの要因として、産業化の進展を挙げることはできるが、それだけではチェコスロヴァキア、特にチェコにおける運動の活発化を説明することはできまい。ここでは、やはり「対抗共同体」という概念を持ち出す必要があろう。複数のネイションが対峙する社会において、彼らはお互いにライヴァル意識を燃やし、鍛えられた身体と統率のとれた集団を目指して努力していったはずである。そこにあったのは、我こそはれっきとしたネイションであるという自意識であった。

  3. 当然のことながら、「対抗共同体」としての「国民社会」を正確に捉えるためには、チェコ人のソコルだけでなく、ドイツ人の体操組織、ユダヤ人のシオニズム的体操団体についても見ていく必要があろう。これらの組織の関係図を明らかにしていくことによって当時の「国民社会」における「複雑さ」も見えてくるはずである。結局のところ、ソコル研究は「対抗共同体」を解明するうえでの最初の一歩に過ぎない。


 2000年7月2日。プラハ市内では約二万名のソコル会員によるパレードが依然として続いていた。その光景はいたって平和なものである。それにもかかわらず、ここから過去の深刻な「民族問題」を思い起こし、ソコル運動に潜む「危険性」を暴こうとする筆者のような観客は、場違いな存在であったに違いない。だが、ソコルは「理念」だけで片づく運動ではないし、美談だけですまされる話でもない。ソコル運動を語る際には、3節後半以降のような話も必要なのである。これからのソコル研究においては、ナショナリズムの担い手としてのソコル、ソコル運動の隠れた原動力となっていたドイツ人の体操、といった側面にも光を当てる必要があろう。そうでなければ、「国民形成」において大きな役割を果たしたソコルの実態は見えてこないからである。


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引用文献等