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宮本直美 『教養の歴史社会学
― ドイツ市民社会と音楽』(岩波書店,2006年)



 昨年の秋,岡田暁生氏による画期的な「西洋音楽史」が刊行された(1)。「偉大な」ベートーヴェンやマーラーの交響曲はどのようにして生まれ得たのか? そして,西洋音楽は如何にして「世界標準」となり,今日のポピュラー音楽においても事実上の基盤であり続けているのか? この新書では,「西洋音楽帝国」の誕生と興隆,そして衰退(?)への過程が非常にコンパクトな形でまとめられている。

 最近では西洋音楽の脱神話化が盛んである。ベートーヴェンの音楽が「鳴り響く哲学」として崇められ,音楽史上の偉人,すなわち「楽聖」として位置づけられていく過程を明らかにした西原氏。過去の「名曲」を演奏するというクラシック・コンサートの様式が19世紀前半に成立したことを指摘し,演奏スタイルの変遷と芸術観の関係を明らかにした大崎氏。クラシック・コンサートと共に登場した近代的聴衆 ― 黙って真剣に音楽を聴く観客 ― に焦点を当て,音楽聴取のあり方からクラシック文化の構造を明らかにした渡辺氏など,枚挙にいとまがない(2)。そして今年,教養としての音楽の誕生に正面から取り組む著作が現れた。それが今回紹介する宮本氏の『教養の歴史社会学』である。

 ドイツ社会の場合,教養 Bildung という理念が重要性を獲得したのは啓蒙時代の18世紀後半であった。この理念は,古典主義・ロマン主義・ドイツ観念論・新人文主義といった様々な潮流の中で多様な広がりを持ちつつも,基本的には自己形成や個人の内的発展を意味する言葉として定着していった(54-78)。そこで重視されていたのは,不断に自己完成へと向かう過程であり,その生きざまを示すことであった。それは,生得的な地位を持つ貴族に対抗して,努力によって自らの証を立てようとする市民の「普遍主義的な挑戦」だったのである。

 教養の担い手であり市民層の中核を成していたのは,アカデミカー Akademiker,すなわち,大学教育を受けた後,官僚をはじめとする社会的威信の高い職業に就いた人々であった(73)。だが,近代社会における市民は「資格」だけで特定されるものではない。ドイツだけでなくフランスやイギリスにおいても,市民層の実体を確定することは極めて困難なのである。ところが,最近のドイツ史学においては,この定義の難しい市民層が盛んにテーマ化されている(7-11)。ここで注目されているのは,「誰が」市民であったのかという点ではなく,「市民(であること)」という理念が重視されていたという点である。特にユルゲン・コッカをはじめとするビーレフェルト学派では,近代ドイツにおいて強調されていた市民的な生活態度,価値観,交際などの市民的文化に焦点が当てられ,市民層という実体の特定を保留しつつ市民層研究が進められている。

 宮本氏は,こうした方法論を継承し,教養という理念を通じて「市民であること」の内実を明らかにしようとしている(10)。確かに,教養も市民も中身が「曖昧な」概念である。教養を持っている人間が市民であり,市民とは教養を持っている者であった,と指摘するだけではトートロジー(同語反復)に陥ってしまう。だが,このトートロジーを体現する言葉「教養市民 Bildungsbürger」がドイツ史において重要性を獲得した点は見逃せない。近代ドイツの市民層は,自らを真っ当な市民として位置づけるために,なぜあれほど躍起になって教養を獲得しようとしたのか? 彼らの多くは,大学卒の肩書きや資格試験の合格によって社会的に高い地位を得ていたにもかかわらず,なぜ抽象的な教養理念にこだわり続けたのか? こうした疑問を解明するためには,教養市民という同語反復のループに正面から立ち向かう作業が必要不可欠である。特に,教養としての音楽に光を当てたという点で,宮本氏の研究は貴重と言えよう。最近の市民層研究では,文芸などの芸術分野に関心が寄せられているが,音楽に関する個別研究は依然として不足しているからである。(美術や建築についても充分とは言えないが)

 では,『教養の歴史社会学』において具体的に何が考察されるのか? まず第一に挙げられるのは,結社としての合唱協会と音楽祭である(第2章)。19世紀前半に本格化した合唱運動では,多数の音楽愛好家(アマチュア)が集まってアソシエーション(結社 Verein)を創設し,主として混声合唱,すなわち女声を含む活動を行っていた。多声の合唱ともなれば,いくら音楽の素養があったとしても事前の練習が必要である。彼らは,個人練習で自分の声部を確認したうえで会合へと出かけたのであろう。そして,全体での練習によって一つの曲を創り上げ,同胞意識を高めていったのである。

 例えば,1791年創立とされているベルリンの合唱団ジングアカデミーは,当世風の「低俗な」音楽ではなく,「神聖で真面目な」音楽の実践を目的としていた(89-96)。1829年にバッハの《マタイ受難曲》再演という大事業を行ったのは,この合唱団である。また,ジングアカデミーは,合唱の伴奏を受け持つ楽器奏者の養成機関を設立しているが,これが後のベルリン・フィルハーモニー(1882年設立)へとつながっている。組織の中核を成していたのは各界の名士であり,高額の会費を負担できる層であった。会員の中には,カール・マリア・フォン・ウェーバーなど歴史に名を残した作曲家の他,ゲーテ,シラー,W. フンボルト,ヘーゲル,ビスマルク,といった人物も含まれていたという。

 合唱運動で主たるレパートリーとなっていたのはオラトリオ(宗教的音楽劇)である(112f.)。特に,19世紀前半にはブームと呼べるほど多数のオラトリオが作曲され,演奏された。従来の音楽史においては,ヘンデルのオラトリオ,バッハの受難曲,メンデルスゾーンのオラトリオが重視されているが,ここで重要なのは,現在では忘れられてしまった多数のオラトリオである。これらの曲は,18世紀のオラトリオのように教会で演奏されるのではなく,世俗の場,すなわち公開演奏会や1830年代に全盛期を迎えた音楽祭で盛んに演奏されていた。たとえばハイデルベルクでは,1834年から43年にかけて音楽祭が開かれていたが,演奏者だけで一回当たり300〜500名,聴衆は2,000名,多い時で6,000名にのぼったという(134)。

 19世紀型のオラトリオは演奏の規模が大きかったというだけではない。独唱よりも合唱に重要な役割が課せられているという点でも,18世紀型のそれとは異なるものであった。1820年に初演され,絶大な人気を誇った F.シュナイダーの《最後の審判》では,4人のソリストが登場するとはいえ,物語のほとんどは合唱によって進められる(121f.)。しかも,ソロも含めた全ての部分が「アマチュア」歌手を前提として作曲されていた。この時期のオラトリオは,ありがたく拝聴するものではなく,実際に参加して歌うものだったのである。現代の音楽学的見地から見れば,「アマチュア」の水準に合わせた19世紀型オラトリオには価値が認められないのかもしれない。だが,これらの曲が祭典の場で頻繁に演奏され,教養への一手段として機能していたという事実は,歴史学的には興味深い点である。合唱という教養の実践を音楽祭という共同の場で確認しあい,その誰もが市民的であることをお互いに確認する,こうした過程においてオラトリオが重要な役割を果たしたのである。

 本書で考察される第二の点は,バッハの復興運動とキャノン(正典)の生成である(第3章)。既に述べたように,J. S. バッハの《マタイ受難曲》はベルリン・ジングアカデミーによって1829年に蘇演されたが,それまでこの作曲家は殆ど忘れ去られた存在であった。彼は,オルガニストや対位法の名人といった点では評価されていたが,作曲家としては生前においてすら重要視されていなかった(147)。ところが,バッハの死から約50年後の1802年,フォルケルが最初のバッハ伝を著した頃から風向きが変わり始める。合唱団のメンバーを含む多くの愛好家がバッハの楽譜を蒐集し始め,彼の対位法について議論することに知的な喜びを見出したのである。そして,メンデルスゾーンのイニシアティヴによって《マタイ受難曲》の歴史的な復活演奏会が実現する。ジングアカデミー・ホールで行われたこのコンサートでは,800を超える座席数であったにもかかわらず客が入りきらず,二度も再演が行われたという。

 ただし,この蘇演によってバッハの知名度は飛躍的に上がったものの,各地の合唱協会がこぞって《マタイ受難曲》を演奏し始めたわけではない。音楽愛好家たちは,市場ベースに乗り始めたバッハの楽譜を買い漁り,バッハについて大いに語るようになったが,それを実際に演奏したり,耳にしたりする機会はそれほど増えていない(163-164)。大部分の市民合唱団にとって,《マタイ》は技術的に困難な曲であったし,理解するのも難しい厄介な作品であった。だが,難解であるからこそ,当時の愛好家たちは余計バッハに惹かれていく。普段の合唱では(歌いやすい)19世紀型のオラトリオを通して教養を目指していたとしても,いつの日か「あの受難曲」を歌ってみせる,そう決意した歌い手が多かったのではないだろうか。《マタイ》を頂点とするバッハの作品は,当時の愛好家が目指すべき究極の目標となったのである。

 こうした作品の「再評価」は,バッハ本人の神格化にもつながっていく。最初のバッハ伝となったフォルケルの伝記によれば,「バッハが音楽においてわけても真面目で高尚な様式をつくり上げたのは,彼が模範とした,多くは教会用の作品の性格によるだけでなく,主として彼自身の真面目な性質のためであった」という(175)。彼は「市民階級の真正な偉大な代表者(183)」なのであり,そうであるが故に傑作を生み出せたという説明である。全くの余談であるが,良き夫・良き父としてのバッハを描いた彼の後妻アンナ・マグダレーナの「日記」がもてはやされた点は興味深い。この「日記」は1925年にロンドンで出版された偽書であり,ナチス期のドイツでベストセラーとなった(3)。更には戦後の西ドイツで映画化もされ,バッハ像の浸透に一役買うことになる。この事実は,良き市民・良き国民としてのバッハ・イメージに我々が如何に縛られているかを物語っていよう。

 偉大なるバッハと彼によって残された傑作の数々。バッハの音楽がキャノン(正典)として認識され始めると,彼の作品に接する時には姿勢を正して真面目に聴かねばならない,と考えられるようになった。18世紀のコンサートはどちらかと言えば社交を目的とする場であり,音楽は聞き流されるだけの存在であった。だが,19世紀に入ると「真面目に」音楽を聴くためのコンサートが登場する(194f.)。聴衆は全神経を集中させて音楽を聴くべきとされ,礼儀違反を犯す者は芸術を解する知性も教養もない素人と見なされるのであった。いわゆるクラシックコンサートの誕生である。市民たちにとっては,ただ単に音楽を享受 genießen するのではなく理解 verstehen することが重要となった。コンサートは,「その作品の音響に直に触れていることを自他に向けて相互に証明する場であっただけではなく,さらにその聴取作法は,各自の内面に『あるべき感情』を喚起していることを同じく自他に可視化するという,様々な意味でアリバイ的な役割を果た」したのである(219)。平たく言えば,彼らは教養人であることを誇示するためにコンサートに出かけたということになろう。

 本書における第三の論点は,音楽芸術 Tonkunst を教養として位置づける装置,すなわち音楽批評や音楽学の問題である(第4章)。ドイツ社会における代表的な音楽評論誌は,1798年に創刊された『一般音楽新聞』であろう(220-221)。現在のドイツ音楽史で必ず参照されるこの雑誌は,発行部数1,000部という当時としては第一級のメディアであり,週刊で50年間継続した。この新聞に代表されるような批評活動が,市民たちに音楽の聴き方や理解の仕方を指南し,教養への道を提示したのである。もちろん表向きには,市民は主体的に音楽を聴き,音楽について語っているはずであった。だが実際には,市民たちは批評というカンニングペーパーを見ながら半ば受動的に音楽を理解することになる。近代的な音楽芸術と共に誕生したのは,お互いに自律した教養市民というよりはむしろ,没個性的で均質な聴衆であった。

 さらに,器楽音楽への賛美が批評に対する市民の依存度を高めた(222f.)。19世紀初頭,E.T.A.ホフマンやノヴァーリスといったロマン主義者たちは,日常の言語では語り得ないものを音楽が語ると考え,歌詞を伴う声楽音楽よりも言葉のない器楽音楽こそ純粋な芸術だと訴え始めた。音楽は何か語り難いものであり,簡単に理解できるものではない,というのである。そうすると,音楽を解釈するためには,より深い専門知識が必要ということになる。1830年の『一般音楽新聞』では,音楽を理解するためには「音楽文法の完全な知識を,対位法の奥義に至るまで備えていなければならない」と書かれている(227)。一般の愛好家にとって音楽は敷居の高いものとなり,専門家によるガイドなしには分け入ることのできない領域と化したのであった。ちなみに,器楽こそ真の音楽という発想は,19世紀後半,ハンスリックによる有名な「絶対音楽」の理念として結実している(231-232)。

 音楽そのものの神聖化が進むと,一般的な愛好家と専門家の分離が進み,音楽理論の担い手を養成する機関が設けられるようになる。つまり,音楽の制度化である(238f.)。本格的な音楽学の成立は19世紀後半を待たねばならないが,既に1830年代には大学の中に音楽の講座が設けられ,学問としての音楽が教えられ始めていた。また,バッハの没後100年,すなわち1850年より開始された作品全集の出版企画も,学問的な見地から行われている(156-160)。当時の作品集では,家庭で気軽に演奏できるようにスコア(総譜)の下にピアノ編曲譜を付けるのが一般的であった。だが,バッハ全集ではそのような配慮はなされず,通奏低音の知識を必要とする楽譜がそのまま掲載された。19世紀において通奏低音はほとんど忘れ去られたスタイルだったにもかかわらず,である。このバッハ全集において重視されたのは文献学的方法であり,実際,考古学者かつ古典文献学者であったオットー・ヤーンによる指導の下で編纂されたのである。この全集は,実際の演奏に供するものというよりはむしろ見るための,ひいては研究するための資料であった。

 以上が本書で扱われている主要な論点である。近代ドイツの市民社会を音楽という側面から光を当てたという点で,本書は高く評価されるべきであろう。音楽は,少なくともコンサートという公共空間を媒介とする点において,文学や美術,建築よりも大きな意味を持っていると思われるためである。現在のオペラハウスにも継承されているボックスタイプのホールが,社会における身分上の差異を再確認する場として機能したのに対し,19世紀に登場したオープンタイプのコンサートホールは,市民社会の平等性を示唆するものであった。また,一つの場でパフォーマンスを聴き,感動を共有するという体験は音楽ならではのものであろう。ホールという公的な場において,市民たちは「真面目に」音楽を聴き,共に感動する(又は感動したふりをする)ことによって,市民社会の一員であろうとしたのである。

 最後に,本書を読んでいて少し気になった点を挙げておこう。その一つは「アマチュア」という用語である。本書では,音楽愛好家の市民をアマチュアと呼んでおり,職業音楽家と区別している。フランス語の amateur から来ているこの言葉が18,19世紀のドイツ語圏で使われていたかどうかは評者は確認できていないが,例えば,Oxford English Dictionary を見る限り,英語圏では18世紀末からの用例が見られる。だが,この言葉は,音楽を専業とするかどうかというよりも,身分上の差異を強調する用語であったと思われる。つまり,アマチュアとは,生活のために演奏せざるをえない「楽師」ではなく,自己陶冶や娯楽といった理由で音楽ができるほど余裕のある人々,を指していたのではないか。

 スポーツ社会学者の P. マッキントッシュによれば,「アマチュア」という言葉は,19世紀のイギリスにおいて「紳士」という語を強めるために用いられたという(4)。たとえば,「紳士的アマチュア gentleman amateur」という用語は,オクスフォードやケンブリッジ大学において,上層出身の学生と「平民 commoners」の学生を区別するために使われていた。1912年のストックホルム・オリンピックでは,ジム・ソープというアメリカの選手が,後にプロ野球での出場歴が発覚したためにメダルを剥奪されたが,これもまた,プロであったからというよりも,スポーツで金を稼がねばならないという彼の出自に問題があった。日本においても,車夫がスポーツ大会への参加を拒まれたという事例が挙げられている。現在の意味での「アマチュア」が定着したのは,第二次世界大戦後にIOC会長のブランデージが厳格なアマチュアリズムを唱えた時であろう。それ以前の用語法においては,「アマチュア vs. プロフェッショナル」ではなく「アマチュア(=市民=ジェントルマン) vs. 下層階級」という構図が成立していたように思われる。

 その点からすれば,18,19世紀のドイツ社会を説明するうえで「アマチュア」という言葉を使うには注意が必要であろう。当時は宮廷音楽から市民層を対象とする音楽への転換が生じていた時期であり,音楽の担い手である作曲家,演奏家,批評家といった層についても,「アマチュア vs. プロフェッショナル」という枠組みでは捉えきれない多様性を見せていた時代であった。専門的な音楽教育を受けた音楽家が恒常的に輩出され,大量の演奏家を必要とする大オーケストラが編成されるのは19世紀後半になってからである。少なくとも,19世紀前半の段階においては,音楽家を「アマ」と「プロ」に区分すること自体,あまり意味がなかったのではないか。

 また,細かい点であるが,「母国語」や「国語」という表記に違和感を感じた(esp.32-36)。少なくとも独英仏の「母語 Muttersprache, mother tongue, langue maternelle」には国や地域という意味は含まれていない。「国語」も「国家語 Staatssprache」を想起させる言葉であり,19世紀のドイツ・ナショナリズムを説明する用語としては疑問を感じる。さらに231頁の記述では,「ドイツ諸国とウィーンとは異なっていたにもかかわらず」,ウィーン古典派のハイドン,モーツァルト,ベートーヴェンが「いとも簡単にドイツの文化として括られていた」と書かれているが,これは小ドイツ主義を前提とした見方ではないだろうか。確かに,18世紀末の啓蒙時代よりウィーンを特殊な地域と見る言説が増え始めるが(5),例えばハンブルクとミュンヘンの違いと比べて,ミュンヘンとウィーンの違いは著しく大きかったのだろうか。政治的にはプロシア主導によるドイツ統一が1871年に実現するものの,文化的なレヴェルでは大ドイツ主義的な感覚が継続した点に注意が必要である。とはいえ,これらはいずれも些細な点であり,本書の価値を減ずるものではない。

 2006年3月31日記

 

  1. 岡田暁生『西洋音楽史 ― 「クラシック」の黄昏』(中公新書,2005年)<戻る>
  2. 西原稔『「楽聖」ベートーヴェンの誕生 ― 近代国家がもとめた音楽』(平凡社選書,2000年),大崎滋生『音楽演奏の社会史 ― よみがえる過去の音楽』(東京書籍,1993年),渡辺裕『聴衆の誕生 ― ポスト・モダン時代の音楽文化』<新装増補>(春秋社,1998年)<戻る>
  3. この点は松本彰氏の指摘による。「日記」の邦訳は,アンナ・マグダレーナ・バッハ著,山下肇訳 『バッハの思い出』(講談社学術文庫,1997年) なお,1968年の映画《アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記》ではグスタフ・レオンハルト扮するバッハが演奏している。この映画は,1960年代における古楽演奏のスタイルを知るうえでも貴重な資料となっている。 <戻る>
  4. P. C. マキントッシュ著,石川旦,竹田清彦訳『スポーツと社会』(不昧堂,1970年),p.196. <戻る>
  5. この点については,例えば,山之内克子『ハプスブルクの文化革命』(講談社選書メチエ,2005年)の第1章を参照。<戻る>

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