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リン・ハント著. 西川 長夫, 平野 千果子, 天野 知恵子訳
『フランス革命と家族ロマンス』
(平凡社. 1999年)


 1791年から92年にかけて、フランスでは王と王室一家を中傷する風刺画が大量に出回っていた(92-94)。それは、王権と政治上の父権を崩壊させるものであり、フロイト的な言い方をすれば「主君殺しの刀」で父を殺害するものであった。国王ルイ16世が処刑されたのは1793年1月21日のことであったが、それ以前の段階で、彼は王が所有すべき二つの身体のうち一つを失っていたのである。彼は、王権の任務を表す不死の身体ではなく、死すべき身体のみを持つ普通の人間ルイ・カペーとして、ギロチンにかけられたのであった。

 小説や絵画、彫刻のレベルにおいては、フランス革命以前から、家父長制の家族イメージ(=家族ロマンス)は後退し、より「民主的」な家族像が提示されるようになっていた。もちろん、それが革命と国王の処刑のすべてを予言していたというわけではない。だが、革命期における家族ロマンスと政治的経験との間には明らかな相関関係があった。本書において主張される第一のポイントはこの点である。

 なお、ハントは「家族ロマンス」という言葉をフロイトとは違う意味で用いている(9-10)。フロイトによれば、家族ロマンスとは「自分の好ましくない両親に仕返しをするために、自分の本当の両親はもっと別のところにいるという神経症的な空想を抱くこと」であった。だが、ハントはこの言葉を個人的なものではなく、政治的・集団的無意識を指すものとして使っている。彼女によれば、家族ロマンスとは、「政治の底にひそむ家族秩序に関する集団的、無意識的なイメージ」なのである。

 本書における第二のポイントは、共和政における女性の地位である。絶対王政から共和政への移行過程において、専制的な父の権威は否定され、お互いを対等な「兄弟」と見なす家族ロマンスが登場したのであった。だが、「民主的」な家族において女性はどうなるのであろうか? 革命の理念を純粋に押し進めていけば、女性も男性と対等な存在であり、彼女たちに市民としての権利を付与すべきだということになるし、実際、そのように主張した者も多数存在した。だが、共和主義の男たちはそこまで踏み切ることができなかった。そして、「罪人」であった国王を殺害しても共同体から暴力を排除できないという「現実」も、女性の排除を正当性する根拠として用いられていく。

 この過程において、王妃であるマリー・アントワネットがポルノグラフィの主題とされるようになったのは偶然ではない(170)。アントワネットは、公的領域における女性の頂点に立つ存在として、卑しめられ貶められたのであった。女性が公的領域に進出すれば、性差が曖昧になり、社会秩序が崩壊するという危機感が共有されつつあった。「王妃となる女性は性を変える」という言説は当時の感覚を代表するものであったと言えるだろう(202)。王妃は性の境界を崩壊させる表象として機能し、その「生け贄」として処刑されたのであった。

 こうしたハントの主張は、フロイトの『トーテムとタブー』を越えるものとして評価することができよう。フロイトは1913年に出版された同書において、精神分析の立場から社会契約の起源について説明しているが、彼は女性についての説明を放棄してしまっているのである(24-28,259-260)。彼の説明によれば、有史以前の「最初の大生贄行為」において、息子たちは団結して父を殺し、食べたのだという。だが、彼らは罪の意識にとらわれたために、二つのタブーを作って自分たちの行為を取り消すことにしたのであった。一つは父の代わりとなったトーテム動物を殺すことに対するタブー。もう一つはインセスト・タブー(近親相姦のタブー)であり、父を殺すことによって解放されたその妻たちが自分たち(息子たち)のものとなることを禁じたのであった。つまり、父親を殺し母親と寝るというエディプス・コンプレックスの主要な願望を抑圧することによって、息子たちは新たな社会を創りだしたのであった。だが、こうしたフロイトの説明においては、女性は「男同士の社会的諸関係の目印」として存在するだけであり、記号以上の意味を持たされていないのである。その点では、女性の位置づけに焦点を当てた本書は、『トーテムとタブー』の議論を一歩押し進めたものと考えることができよう。

 だが、ハントは、フロイト同様、女性がなぜ排除され続けてきたか、という根本的な疑問に答えていないようにも思われる。例えば、キャロル・ペイトマンに対する彼女の反論を取り上げてみよう(360-365)。

 ペイトマンによれば、自由主義の政治理論は、近代においても女性を引き続き従属させるメカニズムを提供したのであった。自由主義者たちは公的領域における家長制(王権)を否定したが、その代わりに私的領域(家庭)における家長制を維持したのである。女性は私的で家庭的な領域に押し込められ、そこでの家長制に従属する存在と見なされたのであった。だが、自由主義が確立される際に経験された家族ロマンスの有り様を見ていけば、「自由主義=家父長制の継続」という単純な図式では見えてこない複雑性が浮かび上がってくる。ハントによれば、女性の排除は、(少なくとも西欧では)いつの時代においても存在したのであり、自由主義の理論的必然として生み出されたものではない。ただし、自由主義は、その理論的必然として女性の排除をより一層問題のあるものとし、人々の目をその点に向ける役割を果たしたのであった。その点は事実である。

 しかしながら、ハントの議論は、女性排除という現象の歴史性を強調するものであり、その原因を説明するものではない。その点では、彼女は『トーテムと タブー』と同じ位置に踏みとどまっているのではなかろうか。

 2001年4月30日記
 


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