[目次] [前頁] [次頁] [HOME]


Emil Brix, Die Umgangssprachen in Altosterreich zwischen
Agitation und Assimilation: die Sprachenstatistik in den zisleithanischen
Volkszahlungen 1880 bis 1910
, Wien: Bohlau, 1982.
(エミール・ブリクス. 『煽動と同化の間で揺れ動くオーストリア帝国の「日常語」
―― ツィスライタニアの国勢調査(1880〜1910年)における言語統計』)

 

 大げさな表現ではあるが、プラハで活動していたユダヤ系のルポライター、E. E. キッシュ(1885-1948)は、チェコ人の市民がドイツ劇場に足を踏み入れることは一度もなかったし、その逆もなかったと断定している1)。例えば、誰か有名な歌手がチェコ人の民族劇場2)で客演するような場合、ドイツ系の新聞はそれを完全に無視したのであった。他方、ドイツ劇場で客演が行われる際には、一般のチェコ人はそれを知らずにいたのであった。もちろん、これは劇場だけの問題ではなかった。20世紀初頭のプラハにおいては、学校や大学、コンサートホール、体操・スポーツ組織、居酒屋、レストラン、カフェといったものがチェコ系とドイツ系に分離し、それぞれの公共空間が形成されていたのである。この街で生まれた歴史家ハンス・コーンの言葉を借りていえば、当時のプラハは「自発的な分離」によって支配されていた、ということになる3)

 だが、チェコ人とドイツ人は太古の昔から争っていたわけではない。今の感覚から言えば、19世紀以前におけるチェコ人とドイツ人の区別ははるかに曖昧であった。少なくとも、1882年にチェコ語を教育語とする大学が設けられるまでは、キャリアアップを目指す者はドイツ語を習得し、ドイツ語社会の中に参入していったはずである。そこには、自分がチェコ人からドイツ人に変わるという感覚はなかったであろう。もちろん、19世紀半ば以降においては、チェコ語からドイツ語への鞍替えに多少の後ろめたさを感じるようになっていたかもしれないが、それとて世紀転換期から比べれば大したものではなかった。しかし、チェコ社会が20世紀を迎えたとき、何かが決定的に変化していた。この時、チェコ社会とドイツ社会との間には、眼に見えない敷居(threshold)のようなものが生じていたのである。

 それまで民族意識とは無縁であったはずの社会において、チェコ人やドイツ人といった区別が生じ、その区別が絶対的なものとして立ち現れていく。なぜ、こうした心性(メンタリティー)の変化が生じたのであろうか?

 その点を考えるうえで、ブリクスの著書は重要である。彼は、ハプスブルク帝国のオーストリア側(ツィスライタニア)で10年ごとに行われていた言語統計に着目し、それが国民(Staatsburger)に民族意識を植え付け、その意識を固定化する装置として働いた事実を指摘している。

 ただし、この統計は、元々、オーストリアにおける諸民族の平等(Gleichberechtigung)を実現するために導入されたものであった。自らの言語で行政サービスを受ける権利、および、自らの言語で教育を受ける権利が、12月憲法(1867年)の第19条によって各民族に保証されていたものの、どの地区にどの民族が何名居住しているのか、という点が明らかにならなければ、保証のしようがなかったからである(97)。

 その結果、導入されたのが「日常語(Umgangssprache)」という指標であった。1880年以降、オーストリア国民(Staatsburger)は、10年ごとに行われる国勢調査において、自分が学校や職場などで使っている言語を申告することとなる。オーストリアの統計学者たちは、常々、民族性(Nationalitat)は言語だけで判断されるものではない、と主張していたが、現実問題として「話されている言語(langue parlee)」以外の基準を国勢調査の項目として導入することは困難だったのである(90)。

 ただし、当局はその調査が、個々人の民族性を判断するものではないと主張し、あくまで行政上の観点から行われるものであることを強調し続けたのであった(97-115)。母語(Muttersprache)や家族の間で用いられる家庭語(Familiensprache)ではなく、「日常語」を採用したのもその為であろう。行政サービスで必要とされる言語を確定するためには、何よりもまず、学校や役所、あるいは職場といった公的な場において何語が用いられているか、つまり、どの「日常語」が用いられているか、という点を確認することが重要であった。その意味においては、私的領域において用いられる母語や家庭語を調べる必要はなかったのである。

 しかしながら、「日常語」という基準は、スラヴ系諸民族にとっては甚だ不公平なものと映った。公的な場では社会的に優位なドイツ語が用いられることが多く、「日常語」では非ドイツ語使用者の数が「不当」に少なくカウントされてしまう、と彼らは批判したのである。その為、「日常語」をあくまで擁護する当局とドイツ人に対し、チェコ人を始めとするスラヴ系諸民族は、母語、あるいは民族性による統計調査の導入を要求する、という対立の構図が出来上がったのであった(esp.100-101,251-321,490-493)。

 また、チェコ諸領邦に関していえば、「チェコ語(Tschechisch,Cechisch)」ではなく「ボヘミア語=モラヴィア語=スロヴァキア語(Bohmisch=Mahrisch=Slowakisch)」という選択肢が設定された、という点が重要である(110)。  

 ここで、「ベーミッシュ/チェスキー(bohmisch, cesky)」という言葉について補足する必要があるだろう4)。そもそも、この形容詞はチェコ人という民族を指す言葉ではなく、ボヘミアに居住する人間を指す言葉であったと言える。つまり、「ベーミッシュ/チェスキー」という言葉には、元々エスニックな意味は含まれておらず、チェコ人とドイツ人を区別する言葉としては不充分だったのである。ところが、民族意識が社会に浸透するにつれ、「ドイツ人」や「チェコ人」を明確に指し示す単語が必要だと考えられるようになっていく。前者を指し示す形容詞としては「ドイッチュ(deutsch)」という言葉が存在したものの、後者については適切な言葉は存在せず、結果としてチェコ語から転用された「チェヒッシュ(cechisch,tschechisch)」という言葉が使われるようになった5)。また、「チェヒッシュ」に相当するチェコ語としては「チェコスラヴの(ceskoslovansky)」という言葉が使われるようになる。1878年に設立されたチェコスラヴ社会民主党(Ceskoslovanska socialne demokraticka strana)はその好例であろう。この党は、「チェコスラヴの」という形容詞を冠することにより、ボヘミアだけでなくモラヴィアやシレジア、そして下オーストリアのチェコ人を含むナショナルな組織であることを示したのであった。  

 こうした事情を考えると、国勢調査において「チェコ語」というカテゴリーが設定されなかった理由が明らかとなろう。当局が恐れていたのは、「チェコ語」という統一名称が、チェコ諸領邦全体にまたがる一体的なチェコ民族の存在をイメージさせ、ボヘミア国権(Bohmisches Staatsrecht)の主張に正当性を与えてしまう、という点であった6)。ボヘミア国権とは、チェコ人の指導者たちによって要求されていた権利であり、ボヘミア・モラヴィア・シレジアの歴史的一体性を確認し、そこにおける民族の自治を要求するものであった。こうした状況の中、当局は、あくまで「ボヘミア語=モラヴィア語=スロヴァキア語」というカテゴリーに固執し、各領邦の行政単位としての個別性を強調し続けたのであった。

 だが、当局が調査の「中立性」や「客観性」をいくら強調しても、国勢調査が民族意識を表明する場へと移行していくのを止めることはできなかった。現実問題として、この調査を基に各自治体の行政サービスが行われていくわけである。だから、チェコ人とドイツ人の間では、10年ごとに行われる国勢調査において、いかに多くの「チェコ語使用者」、あるいは「ドイツ語使用者」を獲得するのか、という点が重要視されたのは、ある意味では当然のことであった。さらには、19世紀末に力を持った社会ダーウィニズムもまた、この争いに拍車をかけることとなる。例えば、プラハ大学のドイツ語部門において統計学を教えていたラウヒベルク(Heinrich Rauchberg)は、国勢調査を「ネイションの力試し(Kraftprobe)」の場と捉えている(425)。彼によれば、数は「自らの強さと財産」を誇示する為の手段であった。「ドイツ語使用者」の増加は、ドイツ民族の発展を意味し、「ドイツ語使用者」の減少は、ドイツ民族の衰退を意味すると考えられるようになったのである。

 ずいぶんと長い文章になってしまったので、この辺りでまとめておくことにしよう。オーストリアの言語統計は、大雑把に言えば、以下の三つの影響を社会に与えたのであった。

  1. すでに述べたように、「日常語」による統計調査は、民族と言語を同一視させる結果をもたらした、と言えるだろう。10年ごとに行われる国勢調査は、各民族が自らの数の多さを求めて争う「選択闘争(Wahlkampf)」の場と化したのである。
  2. この調査は、それまでチェコ人やドイツ人という意識を持っていなかった人々にも民族としての自覚を持たせる役割を果たしたのであった。調査が行われるときには、ビラ、看板、新聞、あるいは集会といった手段により、「日常語」申告の重要性が説かれ、普段はチェコ語を使っているにもかかわらず、社会的地位や子供の出世のためにドイツ語で申告するような人間は、「民族の裏切り者」としして断罪されたのである。
  3. ブリクスは指摘していないが、この言語統計は、地理的に離れた民族の構成員を「我が同胞」として結びつける役割も果たしたと考えられる。特に、ボヘミア北部の繊維工業地域や同北西部の炭坑地域において、チェコ人の労働者や女中が、ドイツ人の資本家や家長から「日常語」を「ドイツ語」として申告するように圧力をかけられた、という類の「事件」が多数発生し、それが、マスメディアによって盛んに報道され、プラハを中心とするチェコ人の反発を呼び起こしたのであった。チェコ人エリートたちは、ドイツ人多数地域に居住するチェコ人を「ゲルマン化の波にさらされている我々の同胞」と規定し、彼らを救うべく様々なキャンペーン活動を開始したのである。
  4.  

 諸民族の平等を実現するために導入された言語統計が、皮肉なことに、国家構成員の民族意識を呼び起こし、民族対立を激化させてしまう。「日常語」の調査が持っていたこうした逆説性。それを見ていくうえで、ここで紹介したブリクスの著作は避けて通れない基本書だと言えよう7)

 2001年2月17日記
 

  1. クラウス・ティーレ=ドールマン著、平田 達治、友田 和秀訳 『ヨーロッパのカフェ文化』 大修館書店、2000年、225頁。<戻る>
  2. この書評においては、nation, Nation, narod に当たる日本語として「民族」を用いている。「ネイション」「民族」「国民」の中からどの語を採用するかについては、文章を書く度に悩まされる問題であるが、その点については、また別の機会に。<戻る>
  3. Hans Kohn, Living in a World Revolution: My Encounters with History, New York: Trident Press, 1964, p.10. <戻る>
  4. Jiri Koralka, Cesi v habsburske risi a v Evrope 1815-1914: Socialnehistoricke souvislosti vytvareni novodobeho naroda a narodnostni otazky v ceskych zemich, Praha: Argo, 1996, pp.49-50, 62, 283-284. <戻る>
  5. この点は評者の推測に基づいており、現在、確認作業中である。なお、19世紀半ばに出版されたグリムの大ドイツ語辞典には、tschechisch という項目は設けられていない。<戻る>
  6. この点はブリクスの主張ではない。チェコ人の歴史家コジャルカによる指摘である。Koralka, op.cit., p.49-50. <戻る>
  7. この点に関して日本語で読めるものとしては、以下の文献がお薦めである。大津留 厚 『ハプスブルクの実験 ―― 多文化共存を目指して』 中公新書(1223)、1995年。<戻る>


[目次] [前頁] [次頁] [HOME]