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「国民楽派」を超えて ― 近代のチェコ音楽とは


1. 「国民楽派」の祖?
 ベドジフ・スメタナ(1824-1884)が,家族以外の者に初めてチェコ語で手紙を書いたのは,1860年3月,つまり30代も半ばを過ぎた時であった。弟子の一人に宛てたこの書簡で,彼は次のように書き始めている。

まず私の手紙に頻繁に出てくるにちがいない,すべての書き方の誤りや文法的な誤りについてお許し願います。私は今日まで自分の母語を完全にすることができませんでした。子供のときからもっぱらドイツ語の学校とドイツ語の社会で育ったため,学生時代は自分が学ぶように強いられているもの以外は学ぶことを怠り,音楽に身を捧げるようになってからは自らのエネルギーと時間のすべてをそれに向けざるを得なくなりました。私は今、チェコ語を正しく表現することも書くこともできないという恥を告白しなければなりません。... (渡鏡子『スメタナ/ドヴォルジャーク』 50頁。但し,訳文については一部変更)

《売られた花嫁》ピアノ編曲版の表紙
《売られた花嫁》ピアノ編曲版の表紙,出版年不明
出典: Ottlová (1997), frontcover.

 ハプスブルク君主国の統治下にあった19世紀半ばのチェコでは,ドイツ語が優勢であり,チェコ語は「下層民の言葉」と見なされていた。だが,この時期に力を持ち始めた教養市民層が,ハプスブルクの首都ウィーンから自立した新しい社会を目指すようになると,状況は一変する。彼らは,この地域の多数派が使うチェコ語に注目し,チェコ語を中心とする市民社会を望むようになった。チェコ語を苦手とするスメタナもまた,こうした中で「母語」を猛勉強し,チェコ語のオペラを書き始めたのである。彼は,近代的なチェコ音楽を確立させることにより,チェコ文化がドイツ文化やフランス文化に匹敵する「文明的」存在であることを証明しようとしたのであった。

 その結果,彼の手からは珠玉の名作が生み出されていく。《売られた花嫁》や《リブシェ》といったオペラ,そして,完全に聴覚を失ってから書かれた連作交響詩《我が祖国》。彼の存在なくしては,今のチェコ音楽は有り得なかったであろう。「チェコ国民楽派」の筆頭に挙げられるのは,当然のことながら,スメタナをおいて他にはないように思われる。

 しかし,である。当時のチェコ社会をよく見ると,「国民楽派」の誕生はそれほど単純なものではなかったことが分かる。スメタナ自身,最初からチェコ音楽の確立を目指していたわけではないし,同時代における彼の評価も様々であった。そもそも当時の社会においては,チェコ音楽とは何か,という点それ自体が論争の的となっていたのである。では,「チェコ国民楽派」は一体どのようにして生まれたのか? ここでは,スメタナを軸にしてその点を考えてみることにしたい。

2. チェコ人と言えば音楽?
 「チェコ人は皆音楽家だ」,「音楽にこそチェコ人の人生有り」等々。この国に行くと良く耳にする言葉である。確かに,チェコには脈々と続く音楽の伝統があり,それが現在にも継承されているように見える。だが,その伝統がチェコ人という国民共同体と結びつけて考えられるようになったのは,少なくとも1860年代に入ってからである。この地域では,チェコ文化を復活させようとする「国民再生」の動きが18世紀後半より始まっていたが,その中心はあくまで言語であり,音楽ではなかった。「国民再生」を目指した初期の理論家たちは,チェコ語の文法書や辞書を編纂し,近代言語としてのチェコ語の可能性を探っていた。中には,「生きた資料」としてのチェコ語の民謡に着目する者や,他言語のオペラをチェコ語に翻訳し,上演する者もいたが,チェコ人独自の音楽を目指そうとする動きはごく僅かであった。

 24歳の時にプラハで1848年の革命運動を経験し,チェコ人意識を持つようになっていたスメタナも例外ではない。優れたピアニストとして売り出し中であった彼は,同時代人であったリストやヴァーグナーに傾倒する「当世風」の音楽家であり,チェコ音楽の確立という「大それた」ことは未だ考えていなかった。しかも,4人の娘の内3人も幼くして亡くし,病身の妻を抱えていた彼は,心機一転,スウェーデンのイェテボリに赴き,そこで音楽監督として活躍した。1850年代後半のことである。ここまでの彼を見る限り,「国民楽派」という趣はあまり見られない。

3. チェコにおける市民社会の成立
 ところが,イタリアとの戦争(1859年)に敗北したハプスブルク君主国が,財政破綻の危機に瀕した国家を立て直すために,市民層と妥協して自由主義的な体制へと移行し始めると,状況は一変する。チェコにおいても,チェコ人独自の政党が結成され,様々な結社(アソシエーション)が誕生し,チェコ語のメディア(新聞・雑誌)が続々と創刊されていく。チェコにおける市民社会の基礎は,この1860年代に築かれたと言えよう。

 そして,1862年にはチェコ人のためのオペラハウス「仮劇場」が開設される。「仮」というだけあって必ずしも満足できる劇場ではなかったが,それでも,市民層が集う殿堂が誕生したことは重要であった。チェコ人にとって,この劇場は音楽を楽しむだけの場所ではなかった。この公的空間に集うことにより,彼らは自分がチェコ市民社会に属していることを確認し,チェコ文化の「文明性」を示そうとしたのである。

 だが,彼らはここで重大な問題にぶち当たった。チェコ人が誇るべき独自のオペラが未だ存在しなかったからである。61年2月より始まったチェコ・オペラ・コンクールの作品募集は,そうした事情を反映していたのであろう。いずれにせよ,「真の国民的オペラ」を創ろうとする運動はこの時始まったのである。スメタナもまた,その募集を見てチェコ語のオペラに挑戦した。コンクールで優勝すれば,開設予定の仮劇場で指揮者になれるかもしれない。そんな実利的な期待も持っていたのであろう。故郷のチェコで定収入の得られるポストに就けるというのは,スメタナのような音楽家にとっても魅力的な話だった。彼は,チェコに生まれようとしていた市民社会に期待を膨らませ,プラハを自らの活動拠点と定めた。

4. チェコ音楽をめぐる論争
 そして生まれたのが,記念すべき第一作《ボヘミアのブランデンブルク人》。この作品により,スメタナはコンクールで優勝したものの,劇場指揮者の地位は逃してしまう。その理由は,スメタナの音楽があまりに「近代的」過ぎることにあった。彼は,ヴァーグナーに代表される革新的手法を導入し,チェコ音楽を「普遍的」で「近代的」なものとして構築しようとしていたが,当時の主流派は,農村で歌い継がれてきた民謡にこそチェコの源流があり,それを引用し模倣することがチェコ音楽の使命,と考えていた。プラハにおいても,1859年までに既にヴァーグナーのオペラが4点初演され,いわゆる「新ドイツ主義」への関心が高まっていたことから,ヴァーグナー派と反ヴァーグナー派の激しい論争が沸き起こっていたが,そうした対立がチェコ音楽をめぐる対立と結びついたのである。常に革新性を求めていた「ヴァグネリアン」のスメタナは,敵方から「ヴァーグナーの亜流」や「ドイツかぶれ」といったレッテルを貼られ,激しい攻撃に晒されてしまう。

 さらに興味深いのは,こうした論争が,当時のチェコ社会における政治対立ともリンクしていた点である。仮劇場の監督であり,スメタナの採用を拒んでいた F. L. リーゲル(1818-1903)は,民謡の模倣こそ全てと考える音楽上の「保守派」である一方,政治活動のレヴェルにおいては,穏健勢力の老チェコ派を代表する人物でもあった。それに対し,音楽における「進歩派」であったスメタナは,急進勢力の青年チェコ派に与し,同派が発行する新聞紙上で自らの主張を積極的に展開していた。スメタナは1866年にようやく仮劇場の指揮者として迎え入れられるが,それは,同劇場の運営委員会で老チェコ派に代わって青年チェコ派が初めて多数派を占めたからでもあった。当時のチェコ社会においては,文化と政治が密接に結びついていたのである。

5. チェコの真髄は農村にあり!?
 この1866年は,スメタナの代表作《売られた花嫁》が初演された年でもある。この作品の登場は,チェコ音楽史上,国民オペラの誕生を意味する重要な出来事として記憶されている。このオペラにおいて彼は,チェコの典型的な田舎の情景を扱いながらも,それを「保守派」のようにただコピーするのではなく,近代的な音楽に昇華させようとした。だが,「チェコ的」な素材として田舎の生活に着目したという点では「保守派」と同じであった。創成期のチェコ市民社会においては,立場の違いに関係なく,農村にこそチェコの源流が存在するという共通了解が存在していたのである。

 だが,近代的な社会の中心をなしていたのは,当時力を持ちつつあった有産市民層であり,農民ではなかった。しかも,当時の教養市民層は例外なくドイツ語での高等教育を受けており,ドイツ語文化圏に属していたのである。チェコ語を教育語とする大学がプラハに設置されたのは1882年であるから,それまではドイツ語で高等教育を受けるのが「普通」だったのである。彼らが首都のウィーンから自立し,かつ,貴族など同郷の旧支配層から自立するためには,何らかの形で自らの独自性を主張する必要があった。その根拠として持ち出されたのが「チェコ性」であり,農村なのであった。チェコ系市民層は,自らの存立基盤を確保するために,農民の生活を参考にしながらチェコ的衣装やチェコ的伝統を考案していった。1860年代のチェコ社会においては,舞踏会や祭典といった催し物が数多く開かれていたが,そこで見られたのは,ちぐはぐな民俗衣装であったり,不可思議な祝祭であったという。この時代,「チェコ的なるもの」は確定されたものではなかったのである。

6. チェコ語ができないチェコ人たち
 言語もまた,農村と並んで「チェコ性」を示す重要な指標であった。チェコ語が苦手であったスメタナは,猛勉強のおかげでオペラの台本や新聞のコラムをチェコ語で執筆できるようになった。だが,これは特殊なことではなかった。既述のように,当時の教養市民層は例外なくドイツ語で教育を受けていたことから,母語がどちらであってもチェコ語を苦手とすることに変わりはなかったのである。

 この点は,近代的な文語が確立されつつあった明治期の日本と状況が似てなくもない。言文一致を目指した二葉亭四迷は,思うように文章が書けないと,まずロシア語で書き,それを日本語に逆翻訳したと言われているが,チェコ語の書き手たちもまた ― たとえチェコ語が母語であったとしても ― 似たような言語的格闘を経験したのではないだろうか? 彼らはドイツ語が問題なく使えるにもかかわらず,相当な無理をしてチェコ語で執筆し,自らの公論の場を構築しようとしていたのである。いずれにせよ,当時のチェコ社会においては,母語がドイツ語かチェコ語かという点は問題にならなかったし,チェコ市民層の多くが,実際にはチェコ語を苦手としていたのである。

7. 死後もさまようスメタナ
 スメタナの生きた時代を振り返ってみると,チェコ音楽をめぐる様々な対立が存在していたことが分かる。民謡に代表される「チェコ的」な素材をそのまま引用し模倣するのか,それとも近代的な語法で処理するのか,という方法の問題について議論される一方,そもそも「チェコ的」な素材とは何か,という根本的な問いも投げかけられていた。19世紀のチェコ社会においては,こうした議論が政治対立ともリンクした激しい論争へと発展していた。その渦中にあったスメタナは,チェコ音楽とは何かという問いに自らの回答を提示し続けたのである。だが,彼を「国民楽派の祖」とする評価が定着したのは,20世紀に入ってしばらく経ってからである。彼はこの世を去ってからも,チェコ音楽をめぐる論争の中で長々と彷徨(さまよ)う羽目に陥ったのだ。

 2004年は,スメタナの生誕180周年を始め,ドヴォジャーク(没後100周年),ヤナーチェク(生誕150周年)を含むチェコの作曲家にとって記念すべき年である。しかし,スメタナの時代を見れば分かるように,「国民楽派」というのはあくまで後世から見た視点であり,それだけではスメタナの全てを語ることはできない。ドヴォジャークやヤナーチェクについても同じであろう。彼らを同時代の社会に即して捉え返し,また,ヨーロッパ音楽全体の流れの中で捉え返してみれば,まだまだ新しい側面が見えてくるのではなかろうか? (それにより,スメタナは再び彷徨(さまよ)うことになるのだが)。

 2008年4月14日転載, 2009年1月26日一部改訂。

【注記1】 このエッセイはN響機関誌『フィルハーモニー』2004年9月号に掲載されたものを一部改訂し、同誌編集部の許可を得て転載したものです。

【注記2】 参考文献についてはこちらを参照。

【註】  

  1. この手紙の原文は以下のとおり。Mojžíšová (1998, pp.92-94). なお,1860年代におけるチェコ語の正書法は現在のものと大きく異なっており,筆者にはどこが「間違い」かを正確に指摘することができない。なお,スメタナが初めて両親にチェコ語で手紙を書いたのは1856年12月23日,チェコ語で日記を書き始めたのは1862年1月1日である。
     Prosjm, bi jste mně předevšým odpustíl wšecky chybi, jak ortografický, tak gramatykálnj, ktere v hojně se v mým psanj nalesnau, neb až do dnešnjho časů mně nebylo dopřáno, se v naší mateřské řečí dotwrdjtj. Od mládj skoro v němčíně jak w školách, tak w společnostjch wíchowán, nedbal jsem, dokud jsem býl študentem, jiného se učítj, k čemů jsem nebyl nucený, a pozděic božska hudba w šecků moji sílů a cely čas pro sebe zabrala, takže teď – k hanbě to musjm přiznatj – neůmjm se patřičně vijádritj, anj napsatj v česke řečí. Ale ta předhůzka ne jen mně treffy, nýbrž take naše školy, á-t.d.!! Že ale jsem z tělem a dušj Čechem a honosým se bjtj sýnem naší sláví, to nemusjm opakowatj. Proto taky se nestjdjm Vám odpowědětj v matřském jazíkem, ačkoliv chybně, á těšjm se, že jest mně to dopřano, Vám vijevytí, ják wlasť naše mně nadevšecko jde. ... <戻る>
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