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シンフォニエッタへの軌跡 ― ソコルとヤナーチェクと「愛国心」


 【1. シンフォニエッタとソコル】
 ラッパ吹きにとって、ヤナーチェクの《シンフォニエッタ》は魅力的な曲である。トランペット9本、バス・トランペット2本、テナー・チューバ2本、ティンパニによって奏される冒頭のファンファーレは、金管奏者なら一度はやってみたい名曲(しかし難しい...)であろう。

 《シンフォニエッタ》は、チェコスロヴァキアで行われた第8回ソコル祭典(1926年)の為に作曲されたという。ソコル(チェコ語で鷹を意味する言葉)とは、「愛国的」な体操団体であり、第二次世界大戦前の最盛期には百万以上の会員を擁していた巨大な結社のことである。概ね6年毎に行われる祭典では、国内だけでなく、ポーランドやユーゴスラヴィアといった周りのスラヴ諸国、チェコ系やスロヴァキア系の移民が多い北米等からもソコル会員が集結し、大規模なイヴェントが繰り広げられたのであった。

 ヤナーチェク本人は実際に体操をしていたわけではないが、少年の頃よりソコルに興味を持ち、その「愛国心」には大いに惹かれていたらしい。そんな彼が日刊紙『リドヴェー・ノヴィニ』からソコル祭典の為のファンファーレを委嘱された、という点には、特に不自然な点はないように思われる。

 ところが、である。この祭典を克明に記録した記念アルバム(本文222頁、図版76頁)を端から端まで眺めてみても、ヤナーチェクに関する記述はほとんどない。確かに、1926年6月26日(土)の午後8時、プラハの市民会館にてヤナーチェクの新作《祭典シンフォニエッタ Sletová symfonieta》が初演された、という点は記載されている。指揮は J. タリフ、オケはチェコ・フィル、《シンフォニエッタ》の次に演奏されたのはスメタナの《我が祖国》であった。

 だが、この演奏会に出席していた音楽家のリストを見てもヤナーチェクの名前は見あたらない。これだけの大曲がソコルの為に創られたというのに、作曲家本人が不在のまま、印刷されていない生の楽譜で《シンフォニエッタ》が初演されたのだろうか? しかも、ソコル祭典の中では数多くの演奏会が行われたにもかかわらず、《シンフォニエッタ》が取り上げられたのはこの時一回のみである。祭典のメインイヴェント、すなわち集団体操が行われたスタジアムにおいても、この曲のファンファーレが奏された形跡はない。何故であろうか?

 フォーゲルの伝記に拠れば、ヤナーチェク本人は、初演時のプログラムに《ソコル・シンフォニエッタ》と記載されていたことに激高し、これは《ソコル・シンフォニエッタ》ではない、《軍隊シンフォニエッタ》なのだ! と叫んだという。さらに、彼がこの曲をソコルではなく軍隊に献呈しようとしたことを考えると、ソコル執行部と喧嘩でもしたのだろうか? 怒りっぽいヤナーチェクのことである。祭典前に機嫌を悪くし、初演のコンサートに来なかったという可能性も考えられなくはない。

 また、この曲はソコル祭典の為だけに構想されたわけではなかった。ヤナーチェクが《シンフォニエッタ》の着想を得たのは、1925年、恋人(愛人)のカミーラと一緒に軍楽隊のコンサートを聴いていた時だったらしい。その後、たまたま日刊紙《リドヴェー・ノヴィニ》からの依頼が重なり、全5楽章から成る大曲へと発展した、というのが真相のようだ。ソコル祭典の翌年に彼が書いた新聞のコラムによれば、《シンフォニエッタ》は自らの活動拠点であった都市ブルノを描写したものだという。ハプスブルク時代の暗いブルノと独立後の明るいブルノ、あるいは、独立前のドイツ人が支配する抑圧的なブルノと独立後の自由なブルノ、といった対比がこの曲の中で表現されているらしい。つまり、この曲は、解放されたブルノ、独立によって獲得されたチェコ人(或いはチェコスロヴァキア人)の自由を賛美する作品であったということになる。いずれにせよ、《シンフォニエッタ》は、ソコル限定の曲ではなかったと考えた方が良さそうだ。


 【2. ヤナーチェクとソコル】
 ブルノ・ソコル協会の記録によれば、この街でソコルが設立されたのは1862年であったという。ヤナーチェクが8歳の時である。妻のズデンカは、ソコルが設立された当初から彼がメンバーであったと説明しているが、それは誤りであろう。この頃、彼はまだ故郷のフクヴァルディに住んでいたし、その当時、未成年者はソコル会員になれなかったからである。ここでは、差しあたりティレルの説に従い、ヤナーチェクがソコル会員となった年を1876年(22歳頃)としておこう。この年は、ヤナーチェクがブルノのチェコ系社交団体ベセダ(Beseda)の合唱団指揮者に選出された年でもあった。ベセダの活動拠点であったベセダ会館(Besední dům)は、ブルノのチェコ系勢力にとって重要な公共空間であり、ブルノ・ソコルの本部もまたこの会館に置かれていたのである。彼はベセダに通い始めたことがきっかけで、チェコ系サークルでの交友関係を広め、結果としてソコルにも入会したのであろう。

 既に述べたとおり、彼はソコル会員であったとはいえ、実際に体操を行っていたわけではない。ソコルには、体育館に通って文字通り体を鍛える体操会員と、寄付などの支援を行ったり、各種のイヴェントや運営面で活躍する非体操会員という二種類の会員が存在していたのである。ヤナーチェクは、後者の非体操会員としてソコル協会に所属していたのであろう。

第8回ソコル祭典
第8回ソコル祭典における男子徒手体操
出典: Památník osmého sletu všesokolského v Praze 1926 (Praha, 1927), p.XLII.
第8回ソコル祭典
第8回ソコル祭典におけるパレード
出典: Památník osmého sletu všesokolského v Praze 1926 (Praha, 1927), p.LVII.

 また、ソコルは体操を行うだけの組織ではなかった。確かに、右に掲げた徒手体操の写真は、ちょっと不気味である。最大で3万人を超える人間が集結し、一斉にラジオ体操のような動きをするのを見ると、ソコルは北朝鮮のマスゲームにつながるような怪しげな団体ではないか、と思ってしまう。

 だが、この当時、ソコル運動は、何よりもまず「民主的」な組織として理解されていた。自身もメンバーであった T. G. マサリク(チェコスロヴァキア初代大統領)は、ソコルのことを「民主主義の学校」と評している。19世紀後半と言えば、身分や階級の差がまだ明確に意識されていた時代である。そうした中で、広範な層の人間が体育館に集まり、体操着という同じ服を着てお互いに「君/お前」で呼び合うというのは、当時の社会では全く新しい経験であったに違いない。彼らは、体育館に併設された講義室で講師の話に耳を傾け、図書室で新聞や雑誌を読み、そして、仲間との議論を通じて連帯感を獲得し、自らがチェコ人の一人であることを自覚していく。ソコル運動は、そうした一種の人間形成の場として考えられていたのである。(もちろん、こうした運動は、場合によっては熱狂的な民族主義や排他主義を生み出す危険性も持っていたのであるが。)

 ただし、ヤナーチェクの伝記においては、ソコルの登場回数はそれほど多くない。その中の一つが、ズデンカとの結婚式(1881年)であろう。ホースブルグによれば、ズデンカの家族はドイツ系であったにもかかわらず、ヤナーチェクは結婚式でチェコ語のみを使うことを要求し、自らはソコルの黒の制服を着て皆を唖然とさせたらしい。ソコルは、ガリバルディの「千人隊」に倣って赤色のシャツ(及び褐色の上着)をユニフォームとしていたから、ここで彼が着ていたのはソコルの制服ではなく民族衣装の「チャマラ」であったと思われる。が、いずれにせよ、この逸話は彼の「愛国心」の強さを物語るエピソードと言えよう。

 もう一つは、1914年6月28日、サラエヴォ事件の日である。この日、ヤナーチェクは家政婦のマリエと共に、ブルノ・ソコル祭典に出かけたのであった。街はチェコ・カラーである赤と白の旗で埋めつくされ、祝祭的な雰囲気に満ちていたという。また、「モラヴィア・イヤー」と題されたこの祭典では、体操と並んでモラヴィア地方の風俗を紹介するコーナーが設けられていた。だが、皇太子暗殺の報により、祭典は中止。がっかりしたヤナーチェクとマリエは、とぼとぼと家に帰ったのであった。

 その後、第一次世界大戦が勃発。「愛国者」であったヤナーチェクは困難な立場に立たされることとなる。実質的にソコルの活動は停止し、主だったメンバーは「反国家的」という理由で逮捕されてしまう。また、ヤナーチェク自身が会長を務めていたブルノ・ロシア愛好会も解散させられている。ハプスブルク君主国(オーストリア=ハンガリー二重君主国)にとって、ロシアは敵国だからである。ヤナーチェク自身は、来るなら来い、といった感じで平然としていたらしいが、不安に思ったズデンカは、夫に内緒で疑いをかけられそうな書簡を焼いてしまったという。


 【3. 「愛国心」とは...】
 ソコルとヤナーチェクと「愛国心」。この3つは分かちがたく結びついているように思われる。だが、「愛国心」という言葉には注意が必要であろう。(1)「愛国的」であるということ、(2) チェコ人であるということ、(3) チェコ語をしゃべるということ。この3つはどのように関係しているのだろうか?

 まず第一に考えなければならないのは、ヤナーチェクがモラヴィアの人間であった、という点である。彼が「チェコ人」であることを本格的に意識し始めたのは、11歳(1865年頃)でブルノに出てからであろう。この点は恐らく間違いない。「チェコ人 böhmisch」としてブルノの中等学校に通い始めた彼は、多数派である「ドイツ人」のクラスメートから散々にいじめられ、悔しい思いをしていたからである。だが、当時のモラヴィアには「モラヴィア人」というアイデンティティーも存在しており、1860年代には、「ボヘミア人」とは異なる「モラヴィア民族」の構築を目指そうとする動き(青年モラヴィア運動)が見られたのである。結局のところ、この運動は主流にはなれず、プラハを中心とするボヘミアの「チェコ民族運動」へと吸収されていくが、「自分たちはボヘミア人とは違うのだ」という意識は、程度の差こそあれ残ったのであった。とすると、「チェコ人」というアイデンティティーがまだ揺れていたこの時代において、ヤナーチェクが抱いていた「愛国心」とは何だったのだろうか? [A]「チェコ的愛国心」だったのか、それとも [B]「モラヴィア的愛国心」であったのか? 普墺戦争(1866年)でオーストリア(ハプスブルク)があっさりと負けた結果、ブルノはプロイセン軍によって占領され、この街では反プロイセンという [C]「オーストリア的愛国心」が沸き起こったが、ヤナーチェクが抱いたのはこの [C] タイプの「愛国心」だったのか? もし、[C] タイプであったとすれば、「ドイツ人」や「チェコ人」といった違いはあまり意味を持たないことになろう。プロイセンは、モラヴィア、あるいはオーストリアに暮らす「国民」全員にとっての「敵」だったのだから。

 第二に、ソコル運動の「愛国心」について考えてみよう。1862年にプラハでソコル協会が設立されたのに触発されてブルノでも同年に体操協会が誕生したが、後者は、民族の為というよりは個々人の健康増進を第一の目的とする団体であった。ブルノ体操協会は、ソコルという名称を用いることすら拒否し、プラハの「愛国的」な運動とは一線を画す姿勢を見せていたのである。その後、64年からは開店休業のような状態になっていたが、プラハで法学を修めてブルノに帰ってきた若者により1868年に復活、今度は「愛国的」な組織として再出発したのであった。ヤナーチェクがソコルの帽子を被って自らの「愛国心」を誇示し始めたのが、まさにこの時期(14歳)である。

 だが、「本家」のプラハ・ソコルが掲げていた「愛国心」も、今の感覚から見れば「生温い」ものであったように思われる。少なくとも1860年代においては、プラハ・ソコルには、ドイツ系と見られる人物が多数出入りしていたし、そもそもリーダー格の人たちはドイツ語で会話するのが普通であった。プラハ・ソコル創設者の一人で、私財を投げ打ってソコルのために体育館を建ててしまったフュグネル(Jindřich Fügner)にしても、チェコ語がほとんどできない人物であり、チェコ語での演説はなるべく避けて通るようにしていたのである。

 チェコ系勢力が弱かったブルノにおいては、プラハ以上にその傾向が強かったであろう。ヤナーチェクが指揮者を務めていたベセダ合唱団にしても、ドイツ系のピアニスト、ヴィッケンハウザー夫人(Amalie Wickenhauser-Neruda)から多大な支援を受けていたし(特に1876-1879年)、自前のオーケストラを持たなかったベセダは、しばしばドイツ劇場から奏者を借りなければならなかった。潤沢な資金を持ち人的にも恵まれていたドイツ系勢力が、多くの面において「遅れ」を取っていたベセダを支援していた、という点は「仕方のないこと」だったのかもしれない。だが、この当時の「市民社会」においては、こうした形でのドイツ系とチェコ系の交流は、ある意味、普通のこととして捉えられていたように思われる。そもそも、ドイツ系とチェコ系の差異が明確化し、両者の「自然な」交流が途絶えていくのは19世紀末の話であった。

 第三に、妻ズデンカとの関係について考える必要があろう。多くの伝記では、ズデンカの家族はドイツ系であり、チェコ語を使うのは召使いと話をする時のみであったと書かれている。ピアノのレッスンをきっかけにズデンカと知り合ったヤナーチェクは、当然のことながら、彼女にチェコ語で話しかけるという「野暮な」ことはしなかったに違いない。ライプツィヒとウィーンへの留学中に彼がズデンカに送った169通の手紙(1879年10月〜80年6月)もまた、ドイツ語で書かれている。ところが、80年に婚約した途端、彼はズデンカにチェコ語で話すことを強制し、既述のように翌年の結婚式でもチェコ語のみの使用を求めたのであった。その後、ズデンカとヤナーチェクは一時的に別居し、二人は離婚寸前まで行ってしまったのである。義父であり恩師でもあったエミリアン・シュルツは、ヤナーチェクのことを「狂信的な民族主義者」とも非難している。これだけを見る限り、ヤナーチェクとズデンカの不和には、民族対立という要素が入り込んでいたと言えるだろう。

 だが、チェコ語を母語とするヤナーチェクがチェコ人であり、ドイツ語を母語とするズデンカがドイツ人であったと単純に言えるのだろうか? そもそも、この当時の高等教育は全てドイツ語で行われていたのであり、母語がどちらであれ、高学歴の者はドイツ語の使い手となるのが普通であった。ヤナーチェクにしても、少なくとも中等学校時代には、ドイツ語には不自由しなかったのに対し、チェコ語については間違いだらけの文章しか書けなかったのである。これは現在のバイリンガルについても同じことが言える。たとえ、日本語と英語の双方で全く問題なくコミュニケーションができたとしても、学校教育を英語で受けている場合には、日本語での読み書きができず、更には、抽象的な思考も不得手になるのが普通である。ヤナーチェクは、1893年にブルノで創刊されたチェコ語の日刊紙『リドヴェー・ノヴィニ』において積極的な文筆活動を開始するが、そこに至るまでには大変な労力を要したことであろう。当時のチェコ語は、文語が確立されつつあった明治期の日本語と同じような状況に置かれていたからである。言文一致を目指した二葉亭四迷は、思うように文章が書けないと、まずロシア語で書き、それを日本語に逆翻訳したと言われているが、当時のチェコ語の書き手たちは ―― たとえチェコ語が母語であったとしても ―― 似たような言語的格闘を経験したのではないだろうか?

 一方、ズデンカの父エミリアンは、元々チェコ系であったと言われている。彼の父親はボヘミア在住の医師であり、チェコ系政党である老チェコ党の支持者であった。だが、その息子はドイツ系の人間として生きたのである。当時の社会においてこうした不思議(?)な例を多数見いだせることを考えると、そもそも、使用言語と民族の間には本質的な関係は存在しないように思えてくる。ヤナーチェクとズデンカ一家との不和は、あくまで夫婦間、家族間の不和であり、言語的な問題、民族的な問題は付随的なことに過ぎなかったように思われるのだ。


 ヤナーチェクが「愛国者」であり、ソコルの会員であったとするならば、ソコルのために《シンフォニエッタ》を作曲したというエピソードには、何ら不思議な点はないように思われる。だが、ヤナーチェクが「愛国者」となり、晩年に《シンフォニエッタ》を作曲するまでの軌跡を見る限り、その過程は単純なものではない。モラヴィアで生きたヤナーチェクは、私にとってはまだまだ謎の多い人物である。だが、機会があれば、また改めて彼の軌跡を辿ってみたい。

 2004年5月9日記


【主な参考文献】

【付記】
 ソコルに関連した作品としては、《シンフォニエッタ》の他、《棍棒体操の為の音楽 Hudba ke kroužení kužely》というピアノ曲があるらしい。これは、1893年に行われたブルノでのソコル祭典の為に作曲されたようである。初演は1893年4月16日。オーケストラやブラスバンド用の編曲も存在する。出版は、ブルノ・ソコル協会(1895年)、プラハ芸術クラブ音楽協会(1950年)、スプラフォン=ベーレンライター出版社(1978年)。

【謝辞】
 この文章を書くにあたり、関根日出男氏、および山根英之氏より貴重な資料を多数提供して頂きました。記して感謝いたします。

* このエッセイは、日本ヤナーチェク友の会会報『草かげの小径』 6号(2004年)に掲載されたものです。

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